遊行寺を知る

遊行寺 縁起

当山は通称「遊行寺」の名で知られており、正式には藤澤山無量光院清浄光寺と号します。

開山は俣野(現在の藤沢市、横浜市周辺)の地頭であった俣野氏の出身である遊行4代呑海上人です。
その兄である俣野五郎景平の寄進により正中2年(1325)に創建されました。

創建以来、数度にわたる戦火、火災により堂宇は度々焼失し、その都度復興してきました。

寛永8年(1631)に江戸幕府寺社奉行から時宗総本山として認められました。

現在の遊行寺は、東海道随一と謳われる木造本堂をはじめとした伽藍(平成27年(2015)に10棟が国の登録有形文化財に登録)や樹齢700年と推定される大銀杏などを有する修行道場として、また市民の憩いの場として今日に至っています。

遊行寺 略年譜

西 暦年 号事 項
1325正中2遊行4代呑海上人 遊行寺を開く
1356延文元鐘完成(現、神奈川県指定重要文化財)
1435永享7関東管領足利持氏 遊行寺に仏殿120坪を造営寄進
1513永正10兵火により全焼 本尊を駿河国(静岡県)長善寺に移す
1591天正19徳川家康 遊行寺へ百石寄進
1603慶長8弥三郎(法名臨阿弥陀仏) 四十八段(いろは坂)寄進
1694元禄7徳川綱吉 金魚銀魚の類を遊行寺の池に放生(ほうじょう)すべき旨を発令
1831天保2藤沢宿茅場より出火、諸堂焼失
1832天保3広間・庫裡・台所・御番方上棟
1838天保9宗祖一遍上人550年御遠忌
1859安政6中雀門上棟(現、藤沢市指定重要文化財)
1880明治13遊行寺類焼 中雀門以外焼失
1897明治30遊行寺再興 宗祖一遍上人600年遠忌
1911明治44国宝「一遍上人絵詞伝」焼失
1915大正4時宗宗学林に藤嶺中学校併設開校
1923大正12関東大震災 本堂他倒壊
1937昭和12本堂復興
1975昭和50時宗開宗700年記念慶讃法要修行  宝物館建立
1989平成元宗祖一遍上人700年御遠忌
2004平成16国宝「一遍聖絵」(絹本着色一遍上人絵伝)遊行寺の所有となる
2014平成26地蔵堂建立
2015平成27宝物館改装、特別展「国宝 一遍聖絵」開催
2019令和元年二祖真教上人700年御遠忌
2024令和6年御廟所・宇賀神周辺整備事業完成(開山700年記念事業)
2025令和7年中庭・放生池周辺整備事業完成(開山700年記念事業)

遊行寺のご本尊

時宗寺の御本尊は阿弥陀如来坐像です。
創建以来、数度にわたる戦火、火災により堂宇を度々焼失してきたため、創建当初の御本尊は今日伝わっておりません。

現在、本堂に安置されている御本尊は阿弥陀如来坐像で、高さ六尺一寸(184cm)、浅草日輪寺塔頭(たっちゅう)の宝珠院が浅草寺からゆずり受けたものです。

宝永5年(1708)夏、遊行48代賦国(ふこく)上人が日輪寺に滞在したとき、この仏像をみて大仏であるから、本山の本堂に安置するのがふさわしいとおっしゃられ、元文2年(1737)10月に遊行寺に移されたのです。

なお、本堂の脇檀には、宗祖一遍上人・遊行二祖真教上人・開山遊行4代呑海上人・遊行42代代尊任上人の祖師像が安置されています。


阿弥陀如来坐像

藤沢と遊行寺

遊行寺の歴史は藤沢の歴史といっても過言ではないほど、深い結びつきがあります。特に近世、門前が「藤沢宿」として発展した頃はそれが顕著でした。

行事期間中、境内では相撲や見世物小屋の興業が行なわれ、
この日のために老若男女問わず藤沢に人が集まり賑わいました。
当然、藤沢宿は宿泊客で大変な賑わいを見せました。

また明治時代には、天皇の御行在所ともなっています。
そのつど宿の役人達は遊行寺に日参して、あれこれと協力しています。

日常生活においても常に遊行寺は藤沢の中心的役割を果たし、
藤沢の人々の支えのもと遊行寺は護持されてきました。
藤沢宿で不幸があれば、住民は遊行寺を頼り、
遊行寺もその世話や力添えをおしまなかったのです。

江の島一ノ鳥居は遊行寺を背景に描いたもので大鋸橋(現遊行寺橋)付近が大山詣や江の島詣の参詣者で賑わったことを示しています。

藤沢宿(歌川広重『東海道五十三次』より)
提供 藤沢市

遊行寺坂上から大鋸橋(現遊行寺橋)まで続く行列の長さを表現した絵です。手前の鳥居は江の島一ノ鳥居です。遊行寺の山門は現在と異なり仁王門となっています。

東海道名所之内 ふちさハ 遊行寺
作者 橋本貞秀〈1863年作〉
提供 藤沢市

宗祖一遍上人と藤沢

宗祖一遍上人が初めて藤沢の地を踏まれたのは弘安5年(1282)のことです。

すでに遊行の旅は8年間が過ぎ、
九州・四国・山陽・近畿・奥州・関東を回られていました。

そして常陸・武蔵を経てぶくろ坂から鎌倉入りを目指されます。
鎌倉は幕府の所在地、将軍は惟安親王、執権は北条時宗でした。

当時、鎌倉では禅宗の寺院が北条氏の保護を受けて盛んになるのをみて、
一遍上人も多くの民衆への念仏勧進を願い、鎌倉に入ろうとされました。
ところが、こぶくろ坂で警護の武士が行く手を遮ります。

浮浪者の取り締まりを厳しくしていた鎌倉に、
乞食のような恰好をした僧尼の一団を入れる訳にはいかなかったのです。

武士に棒で叩かれながらも一遍上人は、「人々に念仏を勧めて歩くことが
私の命である。このように制止されれば、どこへ行けばいいというのか。いっそこの場で命を終えよう。」とおっしゃいました。
一遍上人の衆生化益への強い意志、気迫に圧倒されたのか、
武士は鎌倉の外では布教が禁止されていないと告げます。
そこで、一遍上人は片瀬(神奈川県藤沢市)へ向かい、
別時念仏会、踊り念仏を修されたのでした。

この時、一遍上人がはじめて藤沢の地に足跡を印したのです。
のちに遊行四代呑海上人が藤沢に遊行寺を開き、それが総本山になろうとは一遍上人自身の思いもよらないことであったでしょう。

「一遍聖絵」一遍上人画像 清浄光寺 蔵
「一遍聖絵」一遍上人画像 清浄光寺 蔵
一遍聖絵」第5巻第5段1 鎌倉に入ろうとして武士の制止に合う
「一遍聖絵」第5巻第5段1 鎌倉に入ろうとして武士の制止に合う

御賦算

御賦算とはわかりやすく言えば、「お札くばり」のことです。
賦は「くばる」、算は「念仏札」を意味します。
遊行上人が巡り歩かれるところで、必ず御賦算を行います。

念仏札は、集まった人々1人ずつに遊行上人が手ずから配られます。
一遍上人は、生涯に約250万1千人(25万1千人とも)に配られたと記録されています。

お念仏を称えれば、阿弥陀仏の本願の舟に乗じて極楽浄土に往生できるとの安心のお札であります。「南無阿弥陀佛決定往生六十万人」と刷り込まれていますが、「決定往生六十万人」とは、60万人の人々にお札を配ることを願われ、また次の60万人の人たちに、ついには総ての人々(一切衆生)に配ることを、念願されたのであります。


念仏札

踊り念仏

「一遍聖絵」第4によれば弘安2年(1279)、
佐久郡小田切の里(長野県南佐久市臼田)のある武士の館において、
念仏をしているうちに突然弟子が踊りだした。

このことがきっかけとなり、一同これにならって踊ったのが始まりと言われています。

春と秋の開山忌中、藤沢市踊り念仏保存会による「踊り念仏」が行われます。

踊り念仏